JMA友の会


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JMA友の会は 日本ミュージカル研究会・劇団JMAの OB、OG、ファン等で構成されています。
友の会では、JMA公演チケットの割引等がございます。
入会ご希望の方は日本ミュージカル研究会までご連絡ください。


注:下記に記載されている年月日は PURE WINGや雑誌、新聞、プログラム等 発行当時のものです。
  また内容につきましてもプライベートに関する部分は編集をしてある場合がございます。

****  35周年に思うこと  **********

高井良純

高井良純(たかいよしずみ)


日本ミュージカル研究会・劇団JMA 主宰 作・作曲・演出家(ミュージカル作家) 
元 宝塚歌劇団作曲家

日本ミュージカル研究会友の会 会報誌 PURE WING 第9号より 2004年5月12日発行 

 日本ミュージカル研究会創立三十五周年を迎えた今年は、年初めから滅法忙しく、豊岡市の新ホールでのミュージカル「じろはったん」のこけら落とし公演(5月5日)、八尾市・羽曳野市のコーラス楽譜出版記念公演(3月、4月)、堺市栂ホールでのミュージカル「幼稚園」再演(5月8日)、それらの稽古、打つ合わせと多忙を極めている。

 そして、年末までに三十五周年のパーティーもしたい。それまでに、六月はホテルでのイベント、七月は国際会議場での芸能文化見本市に今年も出展。十月にはこれも二十一世紀協会と国土交通省主催による「御堂筋ストーリー」の再演。そして、クリスマス他−。

 本来は年明けに大作。古代ミュージカルロマン「天日槍物語」の再演。又、再来年は新設の兵庫芸術文化センターでの公演依頼も入っている。

 もう体力との勝負か、思い返せば三十五周年、宝塚歌劇団の作曲をしながら、日本ミュージカル研究会を創立。この劇団のためにミュージカルを創り続けて来た。我ながらこのエネルギーはどこから湧いて来るのだろうかと思う。

 小学校の頃は戦争、中一で終戦。その頃、よく和歌山から南海電車に乗って大阪に遊びに来た。道頓堀を歩いているとスナップ写真屋が商売をしている。僕も何枚か撮ってもらった。

 心斎橋を折れて御堂筋を歩くのが特に好きだった。南から北を見渡すと、並んでいるビルの高さが揃っていて実に美しい。住み慣れた和歌山の田舎もいいが、この御堂筋の眺めはたまらなく好きだった。本町を過ぎるとクラシックな日銀の大阪支店。その前に大阪市役所、横に中ノ島公園、銀杏並木の下では画家達がそれぞれ好きな場所にイーゼルを立て、キャンバスの上に絵の具を重ねている。時々絵描きと目が合って、僕は一寸恥ずかしく目を逸らす。

 その後、北で阪急百貨店の屋上から下界を眺めて満足、帰りは地下鉄に乗って難波まで。これが少年時代の僕の楽しみで、御堂筋が好きだったのは、父が戦前しばらくの間大阪市役所に勤めていた事があり、第七代大阪市長・関一が昭和の初め、大阪の都市計画事業の柱として御堂筋建設を遂行し、その苦労話やエピソードをよく聞かされていたからかも知れない。

 その時、まさかその御堂筋をテーマにしたミュージカル「御堂筋ストーリー」を後に創るとは思いもおよばなかった。今から二十年前に初演。そして一昨年に続いて、昨年、そして今年と毎年の連続公演する作品を創り得たのも、三十五年と云う積み重ねがあったからだと思う。

 日本人のための日本人のミュージカルを目指して創った日本ミュージカル研究会、劇団JMAの方向、それは世間の風潮におもねることなく、優秀な劇団員とともに大道を進み続けてきたからこそであり、それは今後も変わらない。

 最後になりましたが、長年にわたって何時も変わらぬ暖かいご支援を頂き、劇団を支えて下さる皆様に心よりお礼申し上げます。



****  人生死ぬまで勉強  **********  A Letter from Broadway

まこっちゃん
JMA30周年パーティーにて
出口最一(でぐちまこと)


演劇プロデューサー (ニューヨーク在住) MAK Mentertainment INC.
日本ミュージカル研究会・劇団JMA(旧 ミュージカルゼミナール)に1978〜1982年在籍されました。 

日本ミュージカル研究会友の会 会報誌 PURE WING 第5号より 2001年5月31日発行 


 ミュージカルに初めて興味を持ったのは僕が高校2年生、TVの洋画劇場で「サウンド・オブ・ミュージック」を観た時です。その頃、両親の絶えない夫婦喧嘩と受験勉強に追われる多感な思春期を迎えていた僕のそのうす暗かった人生観に希望の光を与えてくれた作品でした。

 「すべての山に登れ」「自信を持って」の楽曲を含む数々のナンバーは、それまでの色々な不安を打ち砕き、何か予想もしない冒険に満ちた未来への予感を喚起させるガイド的な役目を果たしました。

 この映画の後、メロディーを口ずさむ毎日の僕は、自然とミュージカルという世界にのめり込み、どうしたら自分もこんな事が出来るのかと思い始めたのです。

 大学も決まり、高校卒業間際の1978年の3月、新聞の夕刊に小さな記事と劇団オーディションの告知を見つけました。大事に切り抜いて考えた挙句、内気だった僕は勇気を出してこのオーディションを受ける事にしたのです。

 「日本ミュージカル研究会」とその主宰者・高井良純先生との出会いは、それからの僕の人生の方向を大きく決定づけたのかもしれません。合格して始まった千里での稽古は、男性がたったの3人で女性のパワーに圧倒されながらも練習、合宿、公演の準備と忙しく進んで行きました。

 「ミュー研」から「劇団ミュージカルゼミナール」へと形を変えてお世話になりましたが、高井先生の創作ミュージカルへの参加は、「坊っちゃん」そして「真夏の天国」と続きました。

 特に「坊っちゃん」は僕の好きな役どころで、自分に役者魂を植え付けた忘れ難いキャラクターです。稽古中何度も何度も高井先生に「違うなあ。」「もっとしっかり演ってくれんと主役はれんなあ。」といわれる度に、僕自身の役者技量を自問自答していました。

 共演の仲間は何時も暖かく励ましてくれ、皆から「まこっちゃん」と気軽に呼ばれ公私共に本当に仲良くしてもらい、今でも再開すればしっかりとつながるソウルメイト達はこの時に出来上がった宝物です。

 日本ミュージカル研究会・ゼミナールで過ごした大学4年間は、実に充実した中身の濃い青春時代でした。

 高井先生が口を酸っぱくして何時も言われたのは、「お前ら本当に物を知らんな、もっと勉強せい。」「役者ならもっと遊ばんかい。」「もっと色んな人生経験が必要や。」「もっと数多くの舞台作品を観ろ。」「もっとアートを観なさい。」等など。

 刺激をうけて、仲間らと週末に東京まで出かけ5本舞台を観て帰って来たなんて懐かしい思い出もあります。

 ただの奈良のいなか青年だった僕が、この4年間で学んだ意義の重要さは、その後の僕の人生観をごっそりと書き換えてしまった。これらの数々の体験は僕の魂の奥にあるDNAそのものを組み替えてしまったように思います。

 先生の「人を感動させるには、もっともっと勉強せい。」という言葉は、今も自分のモットーの一つです。高井先生、あの時の厳しいご指導誠に有り難うございました。

 あれから20年が経ちました。日本ミュージカル研究会が30周年を迎えた祝賀会に出席しました。

 まったく変わって居られないお元気そうな高井先生のお顔を拝見し、実に嬉しく思い、色々な昔の仲間にも逢え、幸福な一晩を過ごしました。先生は現在も益々のご活躍で創作活動に挑戦され続けておられる事、心より敬服いたします。

 多分、あの後も口を酸っぱく同じ台詞を新人の劇団員たちに言い続けて来られたのでしょうね。作品と共に輩出された人材は、今や日本全国そして世界中にその意思を継いで活躍している事を考えると、高井先生の本当の人間的スケールが自ずから見えてくるのではないでしょうか。

 これからも是非日本のミュージカル界にたゆまない貢献をして行かれるようお願いいたします。

 僕の方は、大学卒業後東京の劇団に移り、1987年にはアメリカの劇団に入団する為ニューヨークに渡りました。

 その後「ブルーマングループ」と言うオフ・ブロードウェイの芝居を制作することになり、今では11年目のロングランを続けています。

 現在はいよいよブロードウェイ向けてミュージカルレビューを制作している最中です。1960年代のヒットソングをちりばめたダンスミュージカルになる予定です。

 最後に一言。昔の出演仲間らと騒いで迎えた公演後の打ち上げパーティーは、今では本当に良き思い出となって目の裏に焼き付いています。どうかこの読者で僕を覚えておられる方は近況をお知らせください。今後の益々の日本ミュージカル研究会及びに、高井先生、そして皆様のご健康ご発展をお祈りいたします。では、また。



****  役 者  ********** 

福井貴一
JMA30周年パーティーにて
福井貴一(ふくいきいち)


俳優 
日本ミュージカル研究会・劇団JMA(旧 ミュージカルゼミナール)に在籍されました。 

日本ミュージカル研究会友の会 会報誌 PURE WING 第3号より 2001年5月31日発行 


 初めまして福井貴一です。最近の私はストレート・プレイとミュージカル・プレイとの半々の生活をしています。学生時代にオペラと出会ったのが舞台を目指す事になる第一歩でした。

 今年の1月に新国立小ホールで「母たちの国へ」という芝居に出ました。ここのけいこ場はとてもおもしろい所です。オペラ・バレェ・演劇が同一空間でけいこされるのです。私は今回で4度目の出演となりますが、毎回とても刺激的です。

 バレエ、オペラの人達はひと目見てどちらの関係の人かすぐに分かります。失礼ながら、あまり太ったバレエの方はいらっしゃらないですし…オペラの方にダンサーのような体格の持ち主には、めったにお目にかかれません。まあ最近はだいぶ様相が変わりつつありますが。

 役者はどうかというと…まあ様々ですねえ。ただ、うさんくさそうな人がいれば、まずそれが役者です。性格も一概には言えませんが、オペラ〜華やか、バレエ〜ストイック、役者〜いいかげん! とでもいったところですか? それに該当しない方ゴメンナサイ、あくまでも私の印象だけの話ですから。

 こんな事を考えてみました。バレエ、オペラは長い時間をかけ勝ち取ったテクニックに感性が裏打ちされないと、表現にはならないと。

 舞台役者さんには大変失礼ですが、役者は、昨日まで“ずぶの素人”であっても感性がよければ、何十年役者をやっていますと豪語するプロの役者を超えた存在を出す人がいると。もちろん役者にだってテクニックは必要ですし、その習得には時間もかかります。しかしそれをも超える素人さんも存在するという事です。バレエ、オペラではなかなかそうはいきません。

 難しいですね〜その線引きは。「存在」となるとほとんど主観の領域ですから。あるときはストイックにもなり、反動で大バカにもなる。なんいでもなれそうで、なんにもなれない!ほんと、うさんくさい人種です役者は。



****  私の原点「ミュージカルゼミナール」  ********** 

西村喜代子(にしむらきよこ)


俳優 (東京乾電池)
日本ミュージカル研究会・劇団JMA(旧 ミュージカルゼミナール)に在籍されました。 

日本ミュージカル研究会友の会 会報誌 PURE WING 第2号より 2000年10月31日発行 


 学生時代、ミュージカルに憧れていた私が偶然にというか、運命的(?)にかミュージカル・ゼミナールに出会い、思い切って受けたオーディションに合格、オレンジルーム(現 大阪梅田=阪急HEP5)でのレッスンに通うようになりました。

 旗揚げ公演「坊っちゃん」から参加して、五作目の「鬼が島」まで全ての作品に出演させていただきました。何も出来なかった私が「鬼が島」では念願の桃太郎役を頂きました。

 ミュージカル・ゼミナールでレッスンを続けていくうちに、小さな夢がだんだんと大きく膨らみ、その夢をかなえたいと一念発起し、「東京乾電池研究生第一期生」として東京へと向かいました。

 もちろん、それから色々苦労もありました。怒り、悲しみ、挫折、喜びと様々な思いを乗り越えて、ようやく確かな自分の居場所を見つけられるようになりました。

 実生活でも結婚し、夫の理解と協力のお陰で、今では、東京乾電池の舞台はもちろん、映画やテレビのお仕事も少しずつですがやらせて頂いております。中村勘九郎さん、藤山直美さんたちとご一緒させていただいた舞台では本当に沢山のことを学ばせていただきました。これからも、もっともっといろいろなお仕事を通して、よりいっそう大きく羽ばたいて行きたいと願っております。

 関西での公演の時には、お忙しい中舞台を観に来て下さり、楽屋を訪ねてくださる高井先生や元ゼミナールの仲間達・・・。いつまでも暖かい皆さんの心に出会うたび、今の私の原点とも言えるミュージカル・ゼミナール頃を懐かしく思います。

 まだまだ舞台人として未熟者の私ですが、これからも努力を怠らず、一歩一歩着実に前進していきたいと思っております。どうかいつまでもJMAの仲間として末永く応援してください。最後に私の芸(心)のふるさと、日本ミュージカル研究会のますますのご発展をお祈りいたします。



注:下記に記載されている年月日は PURE WINGや雑誌、新聞、プログラム等 発行当時のものです。
  また内容につきましてもプライベートに関する部分は編集をしてある場合がございます。



****  日本ミュージカル研究会はいつ、どこで、何をいつまでやったか、
                         そして「これから」何をするのか
 ********** 
内田朝雄


故 内田朝雄(うちだあさお)


俳優

日本ミュージカル研究会作品 邪馬台国物語・プログラムより 


 高井さんは音楽大学を卒業すると、宝塚歌劇団の作曲部に入り、実践の中で自分の「音」を探し、鍛えやがて作曲家が一番大事にする「自分の音」を見つけた。それは高音部にあったと私は思う。

 所は、一地方都市ではない、西日本の文化中心部、大阪に於てのことだ。宝塚の仕事のかたわら、私の円形劇場「月光会」の音楽を十年間担当してくれた。新劇が未だ音楽を使わず、言葉と思想を展開するだけの昭和三十年代のことである。

 台本の主題と曲想で、私達はよく喧嘩をした。思えばそれは高井さんがミュージカルの「台本」を書く下準備だったのだろうか。

 一九六九年に高井さんが独力で始めた日本ミュージカル研究会の台本・作曲・演出、さらに歌・踊り・芝居の出来るチーム造りを「両手」でやり抜いたネバリは、彼の資質にもよるが、彼の出身地・和歌山の風土が背景にあるのだろうと私は思う。

 今、日本には音楽をマスターした台本作家は極く少ない。しかも年間を通じて常時二十年を超えて続けてきた人はいない。これを続けた高井さんの才能、努力、その作品が貴重なものである所以であろう。

 二五年以上前に種を蒔き、水をやり、枝葉を広げ、今、花を咲かせた姿に、四十年の付き合いの中で、誰よりも喜ぶものである。

 願わくは、これからも壮大な脚本と作曲で、しかもその中に高音部の自分の「音」が全体を貫く、生涯を飾る「夢の作品」を創造し続けることを願って、筆をおきます。



****  次代のミュージカルを担う日本ミュージカル研究会  **********

 
山田卓


故 山田 卓(やまだたく)


振付家

JMA創成会・パンフレットより 


 日本ミュージカル研究会が長きにわたって、オリジナル・ミュージカルを創り続けて来たことはまったく驚異に値することだ。ミュージカルを志す者なら、この事実をまことに羨ましく見つめるだろう。

 高井良純氏のミュージカルに対する情熱と卓抜した企画力、次代を担う若者を育成しようとする熱意には心を動かされる。氏の努力と熱意が日本ミュージカル研究会を支えそれに応えてたくさんの若者が力をつけ、大きく育ってきた。それは、歌・ダンス・演技力の全てについて言えることだ。

 ミュージカルが盛んになる一方、泡沫的集団が出ては消えて行く。持続は力であり、長期的視野をもった団体の出現こそが、日本のミュージカルを真に世界的なものにして行くであろう。

 日本ミュージカル研究会が長年の蓄積を武器に、さらに飛躍の時代を迎えることは間違いない。



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